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ちょっと本を作っています

ちょっと本を作っています

第二話 ちょっぴり生意気だった理由

第二話 ちょっぴり生意気だった理由




「エッ、俺が委員長」

60年代の後半です。学生運動が盛り上がった時代です。

ご多分にもれず私もその一員でした。

70年安保直前です。ベトナム反戦運動もありました。

すぐ神輿の上に乗ってしまう私です。


そんな時に、給料の遅配が続きました。

私の勤めていた会社には労働組合がありました。

ユニオンショップ制(社員全員が組合員)でした。

組合員数約60人、ほとんどの組合員が家族を抱えています。

それも一時の給料遅配ではないのです。

大騒ぎになりました。


そんなとき組合大会が開かれました。

私は学生集会のために欠席しました。

翌朝会社へ行ってみると、

「○君、キミが委員長に選ばれたからね」

「何それ? 俺、立候補してないよ」

「誰も立候補しないから、無差別投票で一番票の多い人が委員長となったんだ」


当時私は21歳、最年少組合員だったのです

やらざるを得ません。

でも私のおっちょこちょいはそれに止まらなかったのです。

その半年前に、出版業界全体の青年組織の議長も引き受けていたのです。

学生運動に青年運動、さらに労働組合運動の三足の草鞋です。


一日24時間じゃ足りません。

もちろん仕事もしています。

さらに学生です。

要領と手抜きを覚えたのも。このような背景があったからです。


走り始めました。

まずは給料遅配問題の処理です。

乱暴でした。

組合の闘争資金の積み立て金を配っちゃいました。

そこそこ歴史のある組合だったので闘争資金積み立てだけは豊富でした。


猛烈な反対はありましたが、背に腹は代えられません。

一方で、会社側に迫って幾つかの協定書を取り交わしました。

それが何と、売掛金と在庫の譲渡契約を含むものだったのです。

優先債権である労働債権の担保を確保したのです。


会社の首根っこをがっちり押さえて、ストライキ解除です。

みんな働き始めました。

翌々月からは給料も出るようになりました。

先ずは一件落着のはずでした。



馬鹿は死ななきゃ直らない

その翌年、またまた馬鹿なことを引き受けてしまいました。

私の取った売掛金や在庫で労働債権の担保を確保する方法が一人歩きです。

経営破たんした会社や、しそうな会社の労働組合が真似をし始めたのです。

私の作った協定書を元に、あちこちの経営で交渉が行われるようになりました。


そんな時です。

出版労協(現出版労連)の副委員長たちが訪ねて来たのは。

「中央執行委員に立候補してくれ」

これまた晴天の霹靂です。

結局は引き受けてしまいました。


最年少中執です。

これで四足の草鞋です。

仕事も含めると五足の草鞋です。

もう、自棄のやんぱちです。

23歳でした。


それぞれ何とかこなしましたが、全部中途半端は否めません。

でも勉強になりました。

多くの出版社の状況を把握しました。

それぞれの経営を、裏口から覗くことが出来たのです。

テレビ局、新聞、印刷、広告、映画産業など他産業のことも知りました。



もう一度、第一話の時代へ戻ります

編集部へ移って半年ぐらいで自分の編集部(課)を作ってもらいました。

やはりみんな、私を使いにくかったのです。

山ほど企画書を書いて、「さー、やらせろ」と会社に迫りました。


その翌月から、私ともう一人のスタッフで毎月三冊の出版です。

ほかの編集部員は一年で二~三冊です。

誰も文句を言えません。

そのころまだ、出版労連中央執行委員と自分の会社の組合委員長でした。


方法は簡単です。

余計な仕事をしないのです。

みんなが一頁一頁、印刷の指定をしても、私は幾つかのパターン指定だけです。

誤字脱字には注意するものの、簡単明瞭を心がけました。


印刷現場を知ることが出来たがゆえの手抜きです。

そのほうが印刷職人さんたちがやり易いことを体で感じていました。

実務を軽減した分、企画を追いかけました。


毎月一点の雑誌の別冊と単行本二冊です。

楽勝でした。

ヒマを持て余して、いつも喫茶店で遊んでいたくらいです。

実はこのころ手掛けていたのは土木・建築の技術書でした。



第三話 出版企画会議の話


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